イラスト:3300-1縮小図 タイトル:さまざまな追憶
管理人が記憶している過去の京成についてのさまざまな思い出を綴るページです。
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★「特急ばら号」の記憶
★通勤車のグローブ付蛍光灯
★100系の記憶と104の重要度

★ファンデリアと冬期の蓋?
★小窓の側扉をもった3100形

★「特急ばら号」の記憶

画像:丸井上野店
↑JR上野駅前の丸井は、昭和59年末まで上野京成百貨店だった。

 管理人SSがまだ幼いときの出来事なので、あまり詳しいことまではおぼえていないが、京成の「特急ばら号」に乗車したことをうっすらと記憶している。おそらくそれは、昭和47年10月10日の上野京成百貨店のオープンを沿線にアピールするために運行されたものだと思われる。車両については、行先種別幕付の真新らしい3300形だったことははっきりとおぼえているが、車両番号まではわからない。ただ、当時最新鋭の車両といったら、昭和46年度末に投入された赤電の最終増備車である3300形8両であり、そのうちの6両が充当されていた可能性が高い。
 先頭部には、円形のボードに縦書きで号名、横書きで種別名を十字に組み合わせた京成独特のヘッドマークが取り付けられ、車内では3300形独自の変わった形状をした天井付近の鉄パイプに巻き付けられたバラの装飾が見事であった。残念ながら、百貨店のオープンを宣伝していたと思われる広告類はまったく記憶していない。
 赤電がまだオリジナルの塗色だったころは、それ以外にもさまざまなヘッドマークを付けた車両が見られたものだった。いっぽう上野京成百貨店の方は、オープンからおよそ12年が経過した昭和59年12月23日に残念ながら閉鎖され、その後「丸井」が賃貸という形で営業を開始して現在に至っている。


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★通勤車のグローブ付蛍光灯

 関西では、クロスシート車・ロングシート車を問わず蛍光灯カバーを装着している車両が多いが、関東では特急専用車や一部のクロスシート車を除いて蛍光灯むき出しである。しかし、関東のロングシート通勤車両でも昭和30年代以前に製造された車両では、東武2000系や京急1000形など蛍光灯カバーを装着している車両があった。
 このカバーのことを一般的に“グローブ”と呼んでいるが、京成でも蛍光灯が初めて採用された700形が、当初よりグローブ付きであった。京成のものは、天井をえぐった中に蛍光灯や非常灯を納め、その溝を連続した太めのグローブでふさぐといったタイプのもので、グローブ部が若干出っ張っていたものの天井面はほぼフラットに保たれ、とてもスッキリとして好ましい印象のものであった。その後まったく同じタイプのグローブが750・3000・3050・3100形まで採用された。

 
昭和40年代後半のある日の夜、SSが京成を利用するため某駅にいると、車内がきわめてうす暗い幽霊のような電車がホームに入ってきた。それは赤電系の蛍光灯グローブ付車両であった。そしてすぐに乗車したが、その暗さはホントに不気味なくらいで、SSに付き添っていた家族や他の乗客も車内の暗さを口にしているほどであった。新しいころは好ましく感じていたグローブ付き蛍光灯も、経年による汚れや蛍光灯照度の低下などによってうす暗くなってしまったものと思われる。
 
京成が700形から3100形までのすべてのグローブを撤去してしまったのは、それからすぐのことであった。しばらくはグローブを撤去しただけで、蛍光灯は天井のえぐられた中に納められたままの状態だったが、赤電グループは更新工事の際に天井の溝をなくして、天井面に直接蛍光灯を取り付けるというごく一般的なタイプとなってしまった。一方、青電グループの750形は昭和48年までに全車廃車となってしまったものの、700形は新京成で昭和60年まで使用され、グローブは撤去されながらもその名残は最後まで保たれていたことだろう。

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★100形の記憶と104の重要度

 100形は永年に渡って京成で活躍していた車両だが、比較的早い時期に新京成に譲渡されたため、SSの中には100形が京成を走っていた記憶はまったくない。従って、新京成車としてのイメージが強すぎて、新京成オリジナル車のような気さえしてしまう。
 
しかしながら、新京成で乗車した記憶というのも、廃車からすでに長い時間が経過してしまったため、かなり薄いものになってしまっている。しかも、昭和60年代には100形が予備編成となっており、ラッシュ時しか稼動していなかったので、SSが最後に乗車したのは昭和50年代後半だったと思われ、そのためにより薄らいでしまったのだろう。
 確かに、左右非対称扉の車両に乗った記憶はある。しかし、「あれが今思えば100形だったのかー・・・」程度のもので、それ以外のことはあまり印象にない。100形は、新京成で特別修繕される前には、乗務員室にあたるスペースの全室が壁で仕切られていなくて、運転台のみ壁で覆われ、車掌台はパイプ仕切りのみであったが、その記憶は比較的残っている。

 
もっと印象的なのは、4両の半鋼製車の記憶である。必ず、全金属製のスマートな外観の車両と連結されていたので、編成美を損ねてしまっている点が非常に印象的であった。また、車内も床や窓枠が木製のため、いかにも昔の電車という感じがして、シートのクッションは硬く若干高めであったと記憶している。そして、16メートル車独特のリズムによるジョイント音やその走りは、釣掛車ながらとても軽快だったというのが、SSに現在も残っている記憶である。
 
104については、他の3両とともに昭和54年に早くも解体されてしまったが、戦前戦後に計3回も焼失しながらも、50年以上に渡り活躍を続けただけに、京成車両の中でもきわめて重要な、歴史に残る1両と言えるだろう。また、100形の中では唯一、京成による更新後もシルヘッダー(窓上下の帯)付きの古臭い車体のままとされ、新京成に譲渡されたものの、京成旧型車としてシルヘッダー付きでもっとも最近まで活躍した車両でもある。京成時代の青電塗色は、その古臭い車体によくなじんでいたが、晩年の新京成のハイカラなピンク塗色はあまりにもミスマッチな上、外板の歪みも目立ってしまい、返ってこの車両の悲惨さを露呈しているように思えてならず、なんとも言えない哀愁を感じさせられたものであった。
 
今になってみると、京成にはこの104こそ保存して欲しかったものだ。もし、昭和54年の時点でSSに金と土地があったら、まずこの車両を譲り受け保存していたことであろう。そう考えさせられるほど、SSにとっては京成の車両史を語る上で重要度の高い車両であると思えてならない。

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★ファンデリアと冬期の蓋?

 3000形を初めとして赤電全車には、ファンデリアと呼ばれる送風換気装置が設置された。京成のものは三菱電機製で、天井から車内に大きく露出したタイプであった。登場当初は、まだほとんどの通勤車両に扇風機が取り付けられていなかった時代だっただけに、かなり先進的なものであったに違いない。しかし、昭和50年代後半になると、なかなか冷房化されずに俄然として回り続けているファンデリアを友人たちがバカにして、SSも悪印象を抱くようになってしまった。
 ところで、昭和50年前後?までの話であるが、京成では冬期になると、このファンデリアの羽と下側のカバーを外して、白い蓋のようなものにいちいち交換していた覚えがある。それも、比較的古い車両はその丸い蓋の中央部がなだらかに出っ張ったタイプ、新しい車両は中央部の出っ張りが角張ったタイプと、2通りが存在していたと記憶している。
 赤電は全部で258両だからファンデリアの数といったら気が遠くなるほどで、それを年に2回付け替えていたのだからかなり骨の折れる作業だったと思われる。そのため、昭和50年代には冬期になるとファンデリアにビニール製のカバーをかぶせるだけとなった。

 そんな、京成非冷房車の象徴でもあった思い出深いファンデリアも、平成3年3月の3000形全車廃車と3050形冷房改造完了により、完全に姿を消した。同形状のものは、関東では京急1000形や京王3000系・5000系の一部と、小田急向ヶ丘遊園モノレールや東京モノレールの車両などに設置されていたが、いずれももう見られなくなってしまったものと思われる。
 ただし、現在でも宗吾車庫に保存されている3000形に、その貴重なファンデリアが残されている。

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★小窓の側扉を持った3100形

 昭和36年11月に増備された3100形2次車3121〜3136計16両のうち、昭和45年になって3121〜3124の2両固定2本に小窓を持つ側扉が試用された。この側扉は、当時としてはまだめずらしいステンレス製で、窓の支持方式も外側から金具で押さえる方式のためスマートな印象を受け、SSはこの4両の外観がとても好きであった。しかし、更新前は3121〜3124の2両固定2本が連結されたことはほとんどなく、3200形の4両固定車上野寄りに2両単位で連結した6両編成として使用されることが多かった。
 更新直前のほんの一時期には、廃車になった行商専用車700形+1600形+2200形の代替として、"荷"の表示を付けて2両編成で走行したこともあった。
 昭和57年の更新後も側扉はそのままとされ、3122・3123の運転台が撤去されて、更新後は小窓車オンリーの4両編成で使用されることが多くなった。昭和62年になって前面・側面に行先種別表示幕と冷房装置が新設されてますます好ましいスタイルとなったが、その直後に普通サイズの窓を持った側扉に交換されてしまい、特徴的だった外観も30年足らずで消滅してしまった。
 3121−3122の2両は、千葉急行へのリースや京成への返却などにより、3100形の中で最後まで生き残ったが、できれば廃車時まで小窓の側扉のままでいて欲しかったものである。

画像:京成3121更新車 昭和57年6月16日に更新が完了し、営業運転開始までの間、高砂車庫に留置されていた3100形3121ー3122。撮影は昭和57年7月10日で、相棒の3123−3124の更新が完了する同7月24日ごろまで留置され、完了後4両編成で営業開始になったものと思われる。非常にお見苦しい画像であることが残念だが、更新後も小窓のままとされた側扉がなんとかお分かりいただけることだろう。

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